僕は活字以外の娯楽が更に加速するこの先、小説を売る人は小説だけでなく自分のキャラも売る芸人ぐらいでないと厳しいと思うので、自分の事を書きます。また僕は、文字通り小説に命を救われた経験があり、僕は僕を救ってくれた作家さんを作品だけでなく人として愛していて、僕も顔を知らない誰かにそういう風に愛されたいです。ここでは僕の半生を書くことが、誰かの苦笑いや励ましや決断のきっかけになることを期待しています。
僕は埼玉県の越谷市で育ちました。小学校3年生の時に、クラス全員と教師から同時にひどいイジメを受けていました。みんながいる教室の真ん中で、教師の命令で「反省」と言いながら自分の頭を血がにじむまで自分で机に叩きつけながら、自分には全く味方もいないし、自分が強くなって何とかするしかない、という気持ちを頭が狂うぐらいいつも感じていました。たぶん名探偵コナンが好きで、自分は人より大人で強い人間だと自己陶酔していたからです。ちなみに僕のイジメを先導していた子は、2年ぐらいするとケロッと忘れて、以後、彼と僕はほぼ毎日一緒に遊びました。
中高は空手とテニスとバイトに全力投球しました。またその頃の僕は洋楽ばかり聞いていたのでアメリカに行きたい気分になり、某団体に営業しまくり運良く交換留学させて頂きました。
留学先はアメリカのミシガン州のデトロイトでした。敬愛するエミネムが通った高校の隣の高校で、10マイル通りにありました。そこでも僕はスポーツばかりしていたけど、チームメイトの影響で教会に通い始めました。その理由は、当時の僕は死を恐れていて、信仰があれば死の恐怖を乗り越えられると思ったからです。ちなみにそのチームメイトである親友は、生まれながら両足の長さが違うし膝関節も悪いのだけど、成績トップで、テニスやレスリングに挑戦してるすごい奴でした。日本の学校では命や宗教について話すのが何となくタブーで閉塞感を感じていた僕は、アメリカで初めて友達が出来たような気がしました。
またデトロイトでは何かのバッドラックで、僕は友人の家の地下室を転々として暮らしていました。特に中東からアメリカに移民(難民?)してきたキリスト教徒の方々にお世話になりました。彼らの主食のトマトライスと何かの葉っぱに巻いた肉を食べてました。自分の信仰のために言葉もわからない国に移動するのは大変そうですが、その人達は真面目な働き手で地域でも信頼されているようでした。アメリカってすごいなと、昨今の日本の移民事情を見て感じます。
さて教会ですが、夜の8時にコミュニティーセンターに若者が集まり、まずはエレキギターとドラムのライブバンドを聞きながら叫びまくって、その後に司祭がステージに来て「おまえらー!今日のテーマは、どうやって恋人と適正な関係を築くかだ!」って叫ぶ感じです。顔の半分がなかった牧師の講義が印象的でした。その人は、自分の父親が自殺した後にグレはじめ、母親と険悪になりました。ある日母親に「お前なんか出ていけ!」と言われた時に、もう死ぬかと思ったらしく、父親の遺品の拳銃を持ち出して、川辺で口に突っ込んで引き金を引きました。そして顔の半分は吹っ飛んだけど死ぬことは出来ず、病院で臨死体験をしている時に、神の愛を感じたそうです。信仰を得るのは大変だなと感じました。
その後日本に帰国しましたが、なんだか日本に馴染めなくて、奨学金を得て大学でアメリカに戻りたいと思いました。そうして派遣社員と勉強とストリートダンスを頑張ると、何とかなりました。そして人より牛が多い田舎のアメリカの大学に進みましたが、大学二年生の時に僕は同じくアメリカ留学していた日本人の友人に強く憧れて、大学を休学して日本に帰り彼と一緒に起業してしまいました。それなりに上手くいったのですが、当時の僕は彼に洗脳されていて、ある時点で精神崩壊して彼から逃げ出しました。
その後は借りていた部屋に引き込もり、自分は自殺をガッとやりきる勇気もないから、断食自殺をしながらの読書にトライしました。その時にゲーテのファウストを読んで、何かよくわからなくても、とりあえずどこか前に進もうとしてるなら人生に意味はあるんじゃないかと思いました。そして自分の人生の目標は小説家だなと感じつつ、僕はアメリカの大学に戻りました。
アメリカの大学で僕は国際関係学とロシア語とダンスを専攻していたので、夏休みにロシアのシベリアに留学しました。シベリアに渡るフェリーでオーストラリア人のロックスター風の夫婦に出会いました。彼らは牧師で、僕がアメリカで通っていた教会と同じようなゲリラライブをシベリア各地にやりに行くところでした。意気投合して、彼らもロシア語が話せる通訳を探していたので、僕は彼らのシベリア宣教ツアーに同行しました。当時のシベリアではクロコダイルという麻薬が流行で、歯と肌が溶けてる人がたくさんいたのですが、そういうところでみんなのウェーイを作ると、彼らが何だか前向きになるのに感動しました。
そのツアーの間、僕は二人の牧師夫婦とずっと話をしました。僕は言いました。「宗教が人間を立ち上がらせる力ってマジすごい。でも何で、ジーザスは神の子じゃなきゃいけないんだ?ジーザスが人間だったなら、それは人間が人間を救ってるってことで、素晴らしいことなんじゃないか?」けれど彼はこう言いました。「ジーザスは、一番初めに『私は神の子である』と言っているんだ。だから彼が神の子でないなら、彼は嘘つきだろう。そして嘘つきの言葉は、全て無意味なんだ」。この言葉がきっかけで、僕は自分は永遠に信仰を得られないだろうと悟りました。
さて大学を卒業する頃には、僕は同級生のロシア人の女の子と婚約していたので、彼女が博士課程が決まっていたドイツに移住しようと、彼女とドイツやアメリカで貧乏生活をしていました。アメリカという国では果てなく競争を強いられる気がして幸せのイメージがつかず、こんな国さっさと去りたいとヘコんでました。そんな時に僕の父が急逝し僕は帰国しました。そして親戚の頼みで父の会社の業務を立て直したのですが(引継ぎとか皆無なので大変でした)、なんとその後にその親戚に騙され会社の株を取られ会社を乗っ取られました。そして親戚が僕から詐欺で得た議決権に基づき、母に払われた父の死亡保険金を会社に戻せという約4500万円の損害賠償請求を受けました。
僕に請求書を送った弁護士は人権派弁護士として有名でエッセイやらテレビ出演してる人だったので、世の中怖いなと思いました。だけど法的に対抗しないと母がヤバいので僕は日本に留まりました。そして当時の僕は歴史学の専攻で、一応合格はしていた日本の大学院で研究しながら小説を書こうとも考えましたが、いざとなったら母を養わないといけないので、急遽専攻を経済学(統計)に変えました(学部で経済学の論文も書いていたので認められました)。これらが正しい選択だったのか今でもわからず夢に見ます。
その後、僕は父親の会社をやりつつ相手の弁護士と交渉しつつ、自分も法律事務所に入りフルタイムで働きつつ週末には大学院の論文を書いて、それらが一区切りした後はいわゆる外資戦略コンサルに勤めつつ、全力で投資に励みました。そこまで頑張った理由は、村上春樹は29歳から小説を書き始めたから、俺もそれまでには金を稼いで後は小説だけ書いて生きる!、でした。コンサルの仕事は1年を通して週6日、朝の9時から5時(午前)まで働く感じでしたが、僕はここでも自ら上司にがっつり洗脳されに行って頭をブンブン回し続けたので、やがて鬱でぶっ倒れて入院しました。本当にごめんなさい。
そうして閉鎖病棟で過ごす中、僕はたまたま投資がうまくいっていて、贅沢しなければ食べていけるぐらいのお金はあったので、専業投資家になりました。ここでようやく、小説に集中できる環境が整いました!でも全然書けませんでした。また精神科で処方されていた薬の依存もガンギマリで、お酒もがぶがぶ飲んでいたので、数年間、入退院を繰り返しました。音楽家の奥さんとも離婚しました。
そんな中、僕はアシュタンガヨガというものに出会い少し立ち直りました。そしてお金のためでなく、人からありがとうをもらうために社会復帰しようと思いました。不動産屋だと不動産投資は有利なので、不動産会社を立ち上げて、自分で取引したり友人の不動産仲介をやったりしました。建築がわかると有利なので大学の建築学科に再入学したり、職業訓練校で半年の職人養成訓練を受けたりもしました。そして小説とは違って、仕事はやれば確実に成果が出るので、僕は再び仕事に夢中になりました。頑張りすぎてアキレス腱を断裂した程です。
でもずっと引っかかってるのです。仕事はそれなりに楽しいし、人からのありがとうも得られるけど、何か違う。経営者同士のコミュニティーにも、馴染みたいと感じられない。自分が人生で得たいものは小説を通してからしか得られない。こんなジレンマを抱えながらも、僕は仕事を言い訳にして相変わらず小説を書きませんでした。
そんなもやもやの中、僕はゲンロンSF創作講座のOBがやっている、ダールグレンラジオなるものに出会いました。そこでは毎回様々なゲストが表れ、受講生の作品の話をしながら、SFを書きたければビジュアル系バンドを聴けだの、変な話でゲラゲラ笑ってました。それを聴きながら僕は、僕もこういうコミュニティーの中で生きたいと強く思いました。そしてそのためには、僕もまず、言い訳はやめて小説を書く人間になるべきです。
そんな訳で今の僕は、(怖くはあるけど)仕事の優先順位はぐっと下げて、小説に取り組んでいます。自分の小説を通して、僕みたいに頭でっかちの1人相撲で無駄に苦しんでるおバカさんを救いたいです。そして僕は、他人に勝つためには頑張れるけど、自分に勝つのは超不得意という俗物です。なので今はこのゲンロンSF講座で、同期の皆や講師陣のプレッシャーと競争する形で自分を奮い立たせています。みんなありがとう。
こんな人間です。僕はダメだしで伸びる子なので、作品について、皆様、批判/批評/コメント、頂けるととても嬉しいです。またゲンロンSF8期でこれを読まれた方がいたら、自己紹介の物語を書いて頂けると飲み会がより楽しくなる気もするので、ひっそり期待しています。ちなみに僕はノンアルで行きます。
ゲンロンSF第8期生の天恵月です。天恵月と書きまして「あまえるな」とお読みください。
私のような若輩者が並び立つのもおこがましいのですが、同期ということでご挨拶のコメントを送らせていただきました。Xの方でも度々ご反応頂いて、いつも励みにさせていただいております。
至らぬところも多々あるでしょうが、仲良くして頂けると大変嬉しいです。
私は齢二十余りの若造で、このゲンロンSF講座への参加が自分の意志で踏み入った最初の冒険となります。それまでは親の勧めるままに大学まで進んでおり、順風満帆な人生と言ってもいいと思います。
しかし大学入学後、遅刻などのミスを重ねてしまったことをきっかけに、自分の特性を見つめ直すため立ち止まる期間を設けました。そして「周りの人はできているのに自分はできない」という事実を飲み込むうちに、「それなら周りの人はできないことで社会に貢献するべきなのでは」と考えるようになりました。
大学での勉強に身を入れることもできませんでした。種々のデータを扱ううちに、個々人が数値やグラフに帰納されていくことを受け入れられなくなりました。それが自分の甘えであると理解はしていましたが、そういった疑問を無視できない性質を生かす道もあるのではないかと、小説家を目指す決意を固めました。
元々小説は読むのも書くのも好きでした。十代の頃に身内の不幸が相次いだことで、人の一生を物語ることへの執着もありました。ですので、いずれは作家を志すようになるだろうと思い、ならば早いうちに知識を付けようと講座への参加を決めた次第です。
私はこの講座を通して、小説家として世界へ訴えかけられる力を手に入れたいと思っています。SFというジャンルを選んだのは、技術に支えられた豊かな社会の中でこそ、命の意味を再び問う必要があるだろうと思ったからです。
未来の私が振り返って「賢いことをした」と言ってくれるとは思いませんが、現在の私が胸を張って生きるためにこの道を選びました。
酒は不慣れですが、作家志望同士としてぜひ切磋琢磨させていただければ幸いです。
おおおおおコメントありがとうございます。
そうですね、SFというジャンルはどんどん間口が広がっていて、サブカル的なものから変容し、今は芥川賞を取った人がSF設定で新作を書いたりもしてますね。命や時間とか愛とかのハイコンテキストを、SFという設定でより鮮烈に描けるのかもですね!極論、三島由紀夫の最終作もSFです。
僕は前期はゲンロンの聴講生だったのですが、皆さんとお話しして思ったのは、自分の大事なことは後回しにせず、「今」取り組む勇気を持ち続けた方が、人生幸せだということです。僕は「まず先に金を稼いでその後に小説!」とかかっこいい言い訳をしましたが、そのために犠牲にした時間で、感性だとか大事なものを失った気がします。だから、自分の中に疑問や、何か大事なものがありそれをやるべきと感じるなら、周りの声は無視してでも、極端な話ニートになろうが、それを最優先した方が人生幸せだと思いますよ!社会は人に責任を求めますが、社会は自分の人生の幸せの責任はとってくれませんから。
僕もゲンロンの飲み会はノンアルで行きますよ!よろしくおねがいしまーす。
いえいえ!こちらこそためになるお話を聞かせてくださりありがとうございます。
たしかにSF作家でない人もSFを書くようになってますよね。私は「lain」や「Steins; Gate」のような一昔前のSFアニメが好きなのですが、オタク文化の広がりと共に今ではそれらも名作として多くの人々に受容されているような感じます。
やはり人生の幸せを掴みに行くのは早い方がいいということですね……。私の場合はまだ自活する手段を持っていないので早すぎるような気もしますが、恩田さんのお言葉のおかげ様で「とにかく頑張ろう」という勇気が湧いてきました!
ノンアル仲間大変心強いです。21日にお会いできるのがとても楽しみです!